自分が、嫌い。
嫌い。
自分の身体が、心が。
自分なりに
ポタ、ポタ───
右腕から流れ落ちるそれが辺りに音を響かせている。
その音に合わせ、水面に浮かぶ朧気な月も顔を見え隠れさせていた。
今、森の中にある小さな湖の前に座っている。
どれくらいこうしているのだろう。心なしか霞み始めた景色を見て、ヒナタはぼんやりそう考えていた。
「──ヒナタ、様…?」
ふと、声がする。
幼い頃から聞き慣れたその声に、ヒナタは特別驚くことも振り返ることもせずただ前を向いていた。
今、その相手にだけは会いたくなかったから。
「…なにをなさっているのです?今日は冷えるのに」
──………………
「……ヒナタ様?」
月が、小さな雲に隠れた。
それだけで辺りは暗黒の闇へと引きずり込まれていく。
それでも、闇に迷うことなく後ろの気配が揺らいだ。相手は足早に近寄ってくる。
そして、丁度私の斜め後ろの所でぴた、と止まった。
「……どうかされましたか?」
「…………いえ、何も…。」
ネジの気配がぐっと近付いた。
こんな気分でいるにも関わらず途端に忙しなく動き始める心臓が、今はどうしようもないくらい恨めしく思えた。
そして、それが引き金になってか突然黒ばかりだったヒナタの視界に、奇妙な光が入り交じり、そして歪み始める。
「…………っ」
「………ヒナタ様……?!」
天と地がひっくり返るような感覚にヒナタは思わず顔を伏せた。
崩れかける体勢を、元に戻すことはできなくて。情けなくも、ヒナタの肩はネジの大きな手に支えられて。
顔色は見えなくとも相手が驚いた顔をしていることはその声から容易に伺うことができた。
逃げ出したい、ヒナタが強くそう思ってももう身体は思うように動かなくて。
そして、頃合いを見計らったかのように月が小さな雲を払いのけ、再び夜の闇を照らしだす──
「な………っ」
ネジの声が揺らいだ。
月明かりに照らされた、ヒナタの細い腕。
今は冬なのに、右腕は寒さを凌ぐものを何一つ纏っていなくて。
露わになった白い腕に良く映える、紅い、血――
「何をして…っ!」
「……………………」
慌てていながらも、ネジの判断は速かった。
咄嗟に髪を結んでいた紐を解くときつくヒナタの腕を結び止血をした。
ふと月の光に反射してキラリと光った気がしてネジがヒナタの左手に目をやると、赤く色づいたクナイが握られていた。
血が完全に乾いているところをみると、つい先程のことでもないらしい。
見た感じ傷は深くないはず。きちんと呼吸を一定に繰り返すヒナタを見て、ひとまずネジはほっとため息をついた。
「……自殺でも、なさるつもりだったのですか」
「…………………
………自分が、嫌だったんです」
「…自分が?」
「……はい。」
キラキラと弱い月の光を無作為に反射させる湖が綺麗だった。
呆れたように尋ねたネジに対して、ヒナタは小さくともはっきりと答えた。
未だに自分の身体を支えることは出来ないようでも、言葉も意識もはっきりしているみたいなので安心してもいいだろう。
「…何故?」
「…私は…泣いてばかりだから…」
──泣いては、貴方を苦しめて。
私は何も出来ないのに、運命を呪ってばかりで。
「……もう、泣くのはやめたかったんです……。」
「だからって……」
ネジの声は徐々に大きくなり、苛立っているようだった。
「また…貴方に助けられて…」
それに比べヒナタの声は弱々しく、今にも消え入りそうだ。
「…私は…貴方に何も出来ないのに…」
──心の中で何を願っても、夢の中で何を変えても、現実は何にも変わらないのに。
そんなことしか出来ない自分が、何より苛立たしくて。
ぎゅっ、とヒナタの肩を抱く力が強くなった。
「…考えないように、って、自分を傷つけて、結局逃げようとして……」
「…そうしたら、私の中に流れるこの血が、自分を苦しめてるように思えて…ま
た…他人の所為にして……」
何かが切れたように彼女の涙は止まらない。そんなヒナタの話を、ただ黙ってネジは聞いていた。
ヒナタは、か細い声で言葉を続ける。
「……もう…自分が、嫌……」
いつだって、泣いては貴方に助けられて。いつのまにかそれに甘える自分がいて。自分が変わらなければいけないのに、何もせずできないと泣いて。
強くありたいのに、いつまでも泣いている弱い私が。
「…貴方は、いくら泣きたいときでも、いつだって、私に笑いかけてくれて…」
「……本当に、私は弱くって、自分勝手で……」
ヒナタの虚ろに開かれた瞳から頬を伝い、涙はポタ、ポタと流れ落ちる。
思わず、ネジは後ろからヒナタをそっと抱きしめた。
それに一瞬ヒナタは体を強ばらせたが、抵抗することもなく自由に動く左手をネジの腕に伸ばした。思ったよりも温かく、逞しい腕。
「……ヒナタ様は、自分勝手なんかではありませんよ」
「…………………」
「…もっと、ご自愛なさってください。」
貴女は優しすぎる、と。
その声は、怒っているようでも、悲しんでいるようでもなかった。まるで自分で自分の心も身体も傷つけたヒナタを、宥めるようで。
「………………………」
──ネジ兄さん………
そこからの記憶は、ない。
「……………っ……?」
右腕に走る激痛。
ぴくん、と指先が揺れた。
「あ!ヒナタ起きた!」
──ここは……?
清潔感のある白で統一された部屋。厚い布団を深くかぶったヒナタには暑いくらい暖房が効いていて。
「看護婦さん看護婦さん!ヒナタ起きた!」
「……キバ。…静かにしろ…」
──……ネジ兄さんは……?
どうやらここは病室らしかった。
今はもう昼なのだろう。太陽は随分と高い位置にあって。差し込む日差しが、眩しかった。
まるでそこに心臓が移ったかのように脈を打つ傷口には、包帯が巻かれていた。
ただそれは皮膚の痛みを伴っていなくて。治療されたということに気づくのに、さほど時間はかからなかった。
「ヒナタ!大丈夫かっ?」
「……静かにしろ……」
心配そうに顔をのぞき込むのは、ヒナタのチームメンバー。ふいにカリカリという音が聞こえ、そちらに向くと窓にはキバの相方が、心配そうに小さく鳴いていた。
「動物は駄目だからな……。赤丸も心配してるんだぜ」
「………ありがとう……」
目を細め嬉しそうに礼を言うと、キバは照れたように笑って。シノはサングラスをかけているから直接表情を伺うことは出来ないが、纏う空気が柔らかかった。
「びっくりしたぜ、集合場所に行ってもヒナタは来ねーし、先生はヒナタが病院にいるって言うし!」
「……ごめんなさい……」
「いいっていいって!」
それより無事でよかった、と。
その笑顔は、昨日自分がした行動全てを恥じさせるには十分過ぎて。
ぐっ、と左手に力が入った。また迷惑をかけた自分が、苛立たしかった。
聞くと流した血が致死量に達しなかったといえど、暫くは安静にしなければならないらしい。でも、夕方にでも退院できるそうだ、と。シノはポットの水をコップに入れながら、呟くように言った。
元々貧血になりやすい体質なのだ、動いて昏倒されても困るからだろう。
「でも、親切な奴もいるもんだよなーっ」
「?」
ふと、窓越しに相方と戯れるキバが今思い出したかのように言った。感心、とでも言いたげに言葉を続ける。
「なんでもヒナタをここに連れてきた奴、血も分けてくれたらしいし」
「………え……?」
真夜中のここ木ノ葉病院に突然ヒナタを抱えてやってくると、自分の血を使ってくれ、と。流した血が大した量じゃなくても、この人はよく貧血をおこすから、と。
「…だ、誰が…?」
「さぁ?詳しいことは聞いてねぇし」
「…確かなのは日向のA型かO型だということだな…」
「?なんでO型?」
「…O型の血は、他の血液型の者にも輸血できる」
「ふーん…」
シノから受け取った水をこくんと飲み下しながら、ヒナタは話に耳を傾ける。
「誰から聞いたんだっけ?」
「受付の看護師だった」
「聞いてくるか」
「だ、大丈夫……」
動き出したキバに慌てて、後で自分で聞くから、とヒナタは小さく首を振った。
飲み終えたコップを手近な所に置きシノに礼を言うと、動いた身体に反応して傷が疼いた。
──馬鹿だなぁ、私……
はぁ、と内心ヒナタは小さくため息をついた。
やっぱり自分ばかりで、何も考えていない自分が。
「…キバ、行くぞ」
「え!なんで」
「…お前は五月蝿すぎる。それに、早く回復してもらわなくては、明日の任務に支障がでるだろう」
「…ちぇ、わーったよ。じゃ、ヒナタまた後でな!いつものとこにいっから。な、シノ」
「……あぁ。」
「…ごめんね、じゃあ、後で……」
──『ご自愛なさってください』──
──間違ってるよ…やっぱり私、自分のことしか考えてない……
2人が出て行ったドアをいつまでも見つめながら、胸の中に渦巻くのは、申し訳なさと、自己嫌悪感――
もう太陽は沈んでいた。
結局血の提供者ははっきりと分からなかった。
相手は最後まで名乗らなかったらしい、記録簿にはO型と書いてあるだけで。私を受け持ったのが夜勤の人で今はいないから、特徴を聞くことも出来なくて。
──まさか、ね
何の根拠もないのに、何故かその可能性は限りなく0に近いような気がしてならなかった。
さくさくと軽い音を立てる落ち葉とは裏腹に、私の心は今まで以上に重かった。
なんだか、思った以上に気が乗らなくて。多分申し訳ない気持ちからだろう、足が思ったように前に進まなかった。
「……………?」
わざと遠回りして目的地に向かう途中。草と草が不自然に擦れ合う音がして、ふいにヒナタは足を止めた。
ちょっと視線を横にずらしただけで、容易に確認することができたそれ。
「っ大丈夫ですか?!」
「どこか怪我した…?」
「いや……なんでもない」
──…ネジ兄さん……?
木の陰から見えたのは、従兄弟とそのチームメイトだった。
修行中なのであろう、辺りにはクナイや手裏剣などが転がっていて。
今は、1人を囲んでまとまっている。
「顔色悪いですよ…?」
「熱…は…ないみたいだし…
………貧血、かなぁ」
「怪我したんですか?」
「違う」
「じゃあなんで?元々貧血になるような人じゃないでしょ?」
「…それは…」
──………………
まさか。
「……ちょっと献血、を。」
ヒナタは走り出していた。
まだあまり動き回っちゃ駄目と言われていたけれど、そうせずにはいられなかった。
息が、あがる。耐えられなくなって、ヒナタは立ち止まった。
ネジの優しさを知らなかったわけではないけれど、何故か置いていってくれるという確信が確かにあった。
置いていって欲しいという願いが、あったからだと思う。
あそこは日向の敷地内だったから、誰かに発見でもされるだろう、流した血の量が大したことなかったから、自分で処置できるだろうと。
思い返せば、己のしたこと全てが、無意味で、愚かなことだった気がする。
──『自愛』、かぁ……
自愛。自分を、愛すること。
…自分のことを好きになれたら、変われるのだろうか?
息を整えて、ヒナタは歩き出した。
自分を好きになって、自分に自信をつけたら。
まっすぐと己の意志を貫き進めるのだろうか?
自分ばかりを大切にして、周りを見なくなることじゃなくて。
「あ!!ヒナタ!もう大丈夫なのかっ?」
「…うん。心配かけて、ごめんね。」
自分を好きになれたら、きっと、もっと。
「ってか聞いてくれよ!さっきシノがさァ……」
──お礼、言わなきゃね。……ネジ兄さんに。
変わる。自分を好きになる。
そうしたらきっと、次に流す涙は違うものになるから――