それは、突然の雨だった。

初夏の賑やかな音 土の匂い
雨が、その全ての音を飲み込んでいった。

「……冷た…」

1人呟いた少女の声も、例外ではなかった。
せめて上着の水分だけでも、と思いヒナタは、水分を十分に吸ったそれを脱ぎ、ぎゅっ、とできる限りきつく絞った。
古びた石畳に、水が円を描いていく。
見渡した限りでは、ここは作業場だったらしい、嫌という程埃を被った錆びた金づちやらノコギリやらが、あちこちに散らばっていた。
手をつけた様子も見受けられないから、かなり長い間使われていないのだろう。

徐々に身体が冷えていくのを感じ、ヒナタは雨が止むまで待とうと上着を着直すとその場に座り込んだ。

「…どうしようかなぁ…」

誰かが迎えに来てくれるなんてありえない。無意識にそう思っていた。
自分がいないことにすら、気付いてくれていないだろう、と。
膝を抱く腕に、力が入った。

――駄目だ、思い出しちゃ。考えちゃ。

思い出す度 胸を強く締め付けられるようで。
今にも聞こえてきそうなあの言葉たちを忘れようと、雨の葉に打ち付ける音に必死に耳を傾けた。

「……ッくしゅん」

濡れた身体に容赦なく冷たい風が吹き抜けた。
夏と言えど体温は下がっていく――








奥から音を聞いたのは、それから間もない事だった。
今まで人の気配はなかったから、不思議に思い 立ち上がる。
一気に体温を奪われた身体に、無意識に腕を組んだ。
ここから見える、お世辞にもそう言えないような縁側から、誰か入ってきたのだろうか。
もし住人でもしたら、此処にはいられない。
ヒナタはとりあえず扉に足を向けた。冷たい雨水の音が、微かに、しかしはっきりと聞こえてくる。
先程より、雨は弱くなって……いない。
…逆に、雨はその激しさをましていた。
でも足音は、確実にこちらへ近づいてきている。

―…早く、ここから出なくちゃ・・・

一歩踏み出す外は先程より冷たく、ヒナタの体温を容赦なく奪っていく。
前に体重をかけ、地面を蹴ろうと左足に力を入れ…

「…こんな雨の中、何処へ行かれるんです?」

突然声と共に何かがヒナタの腕を掴んだらしい、後ろに体重が移動し耐えきれずに倒れそうになった。
何度も聞いた事のある、呆れたようなため息まじりの声。この声の主を、ヒナタはよく知っていた。

「…大丈夫ですか?」
「…ね、ネジ兄さん…」

結局腕にすっぽりおさまったまま、呆けたように相手の名を口にした。
上着越しに、普段なら冷たく感じるはずの相手の温かさがよく伝わってきた。

「…ご、ごめんなさい!」
「いえ。」

急いで相手から離れ向き合い、雨に負けじと、ヒナタは精一杯の声を張り上げた。
それに一瞬驚いた顔を見せたが、ネジはいつもと同じように、綺麗に微笑んでみせた。
そしてふいに、視線をヒナタの後ろに持っていく。ネジの目に映るのは、しきりに上から下へ落ちていく雫たち。

「…迎えに来た、つもりだったんですけど…」
「けど?」
「…俺も傘…持ってなくて…」

確かに身体はずぶ濡れ、服は水を多く含んでいて重々しい
ヒナタのすぐ後ろにある、中途半端な位置から動かした様子が見受けられないこの扉に近づくと、ネジは重くのしかかった雲たちに目をやった。

「…当分止みそうにありませんね。」

水たまりはその規模を少しずつ拡げていき、既に小さな池のよう。
雲はどこにそんな水を溜め込んでいたのだろう、そう思わせる程だ。

「…雨が止むまで、待ちますか。」

走って帰るには無理があるだろう、と。
濡れてずっしりと重くなった服の裾を絞りつつ、静かにネジは言った。
今さっきそれを実行しようとしたヒナタは、恥ずかしさに思わず赤面し顔を伏せた。







「…ま、前にもありましたよね、こんなこと」

冷えるといけないから、とぴったり寄り添い隣同士に2人は座っていた。
流れる沈黙の中、物憂げに雨を見つめるネジの横顔がやけに綺麗で。滴る水滴も、なんだか色っぽくて。
余計に心臓が高鳴るものだから
雨の音で消されるのわかってながらも、それがバレてしまいそうな、そんな気分になって。
なんとか、ごまかそうと試みたけど
いつもより吃った、情けない台詞になってしまった。

「…あの時は、雷もなっていましたね」
「…ごめんなさい」
「…何故、謝るんですか?」

あの日も、突然の雨だった。
私達がまだまだ幼い頃。
日向の確執など知らず、ただ純粋に生きていたあの頃。
は、猫を追って、森で迷子になったんだっけ。
今となればただの散歩道と言えるけれど。
当時は周り360度全てが見たことのない、そんな場所だった。
猫も見失って、帰り道も忘れてしまって
心細くなったところに、雨が追い撃ちをかけてきて。
雷が怖くて、洞窟に逃げ込んだ
其処の空気は冷たく、全ての音を反響させるものだから
うずくまって、膝を抱いて、どうなってしまうのだろうと。
甘い環境下で育った私には、到底堪えられないものだった。

「…あの時も、ネジ兄さんが迎えに来てくれたんですよね。」
「…洞窟に居てくれたお陰で、貴女に気付くことができましたから。」

怖かった、寂しかった。
ただひたすらそう思った。
独りにされたのは、多分あの時が初めてだったと思う。

「…ホント、今とは大違い。」

帰ったときの皆の顔。
胸を撫でおろして、"よかった"と。
…私も、それに甘えていた。
それがやがて、あの子が生まれて
"自由な時間"を与えられた時から
外に出て 夜遅くまで帰ってこなくても
忍者学校のテストで 100点をとっても
叱られもせず 褒められもせず。
"自由"を喜ぼうと目論んでみたって
残るのは、虚しさだけだった。

「…俺は、そうなってよかったと思いますけど。」
「………え……?」
「…だって、そのお陰でこうやって会えるんですから」
「……………」

…そうだ。
縛られたままなら会えないはずだった。幼いときはそう。"嫡子"として部屋に閉じ込められ、窮屈な生活を送っていたのだ
"自由"になって独りになった時間を、一緒に過ごしてくれたのはネジ兄さんだった
もし、昔のままなら。
想い焦がれる相手に逢えることなく
ただひたすら貴方を想って過ごす日を生きていたかもしれないのだ

「…ありがとう、ございます」

昔と、今に対して。
組んだ手から視線を外さずにでも、私は素直なこの想いを伝えることができた
出来れば、未来もそうであるように願いを込め。

「……ッ…?」
「……熱…あるみたいですね」
「…だ、大丈夫…です」

ふいに額に冷たい手が触れて
余計に体温が上昇した。
私がいないことに気付いている人がいなくても
心配なんてカケラもされなくても。

いけないことだけど
落ち零れに生まれて、良かったとさえ思う。

「…雨、止みませんね」

こうやってネジ兄さんに逢える今が。

「…止まなければ、いいんですけど。」
「…え……?」

…幸せだと、思うからーーー